2013/11/6

コーヒーブレイク

東欧革命の父逝く~ポーランド

この記事の要約

ポーランドの平和的体制転換を実現し、戦後の東欧で初めて選挙を通じて首相に選ばれたタデウシ・マゾビエツキ氏が10月28日死去した。享年86歳。3日にワルシャワで行われた国葬には、コモロフスキ大統領、トゥスク首相、ワレサ元大 […]

ポーランドの平和的体制転換を実現し、戦後の東欧で初めて選挙を通じて首相に選ばれたタデウシ・マゾビエツキ氏が10月28日死去した。享年86歳。3日にワルシャワで行われた国葬には、コモロフスキ大統領、トゥスク首相、ワレサ元大統領、クワシニエフスキ元大統領、欧州連合(EU)のバローゾ欧州委員長など国内外の要人が出席。オバマ米大統領やメルケル独首相、ローマ法王フランシスコなどから弔辞が寄せられた。

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マゾビエツキ氏は法学を修め、カトリック系の反体制運動に加わった。一時は共産体制下で下院議員を務めたこともある。1980年に自由労組「連帯」がグダニスクでストライキを起こすと現地へ向かい、顧問として運動に加わった。翌年12月に「連帯」が非合法化されるとマゾビエツキ氏も投獄され、1年を獄中で過ごす。

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その後も民主化を求める国民の声は収まらず、83年の戒厳令解除後、統一社会党政府は穏健な対応に努めた。ゴルバチョフ氏がソ連書記長に就任した86年以降、政府も反体制派への譲歩がしやすくなり、89年、マゾビエツキ氏らの尽力で権力者と反対派が同じ目線で話し合う「円卓会議」が開催される。

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選挙で「連帯」が勝利しても、社会党と連立政権を樹立するという大きな譲歩を行った結果、戦後の東欧で初の自由選挙が実現。平和裏の体制転換が成り、マゾビエツキ氏が首相に就任した。これが他の東欧革命のモデルとなった。

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首相就任後はバルツェロヴィッツ経済相とともに大規模な民主化を断行し、多くの人が職を失った。しかし、これが後の経済的成功につながったとみられている。91年の大統領選に出馬したが、ワレサ氏に敗れた。

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92年には、国連人権委員会の旧ユーゴスラビア連合特別報告者に就任した。人権侵害について詳しく報告し、国際社会の介入の必要性を訴えた。しかし、各国が実行に移さなかったため、1995年夏のスレブレニツァ虐殺を招いたとして抗議の意を表して辞任した。

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2010年からはコモロフスキ大統領の顧問を務めた。

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マゾビエツキ氏の政治姿勢は「和解」に象徴される。常に対話を求め、正面衝突を避けて手元にある手段を用いて不可能を可能にしてきた。ポーランドでは、小さな譲歩を勝ち取ることで、血を流さずに変革を実現させた。

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隣国ドイツとの関係改善の地盤を作ったのもマゾビエツキ氏だった。選挙を控えて態度を決めたくないコール首相(当時)と粘り強く交渉し、国境画定承認を引き出した。これが両国の歩み寄りの出発点となった。

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ポーランドでは「自由と独立の父」の一人として知られるマゾビエツキ氏。最高位の勲章である白鷲勲章に飾られ、家族の眠るワルシャワ近郊の墓に埋葬された。

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ルーマニア・ブルガリア・その他南東欧・トルコ
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